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紅茶の日と大黒屋光太夫

紅茶の日と大黒屋光太夫

皆さんは11月1日がなんの日かご存知でしょうか。
答えは紅茶の日です。紅茶の日は日本紅茶協会によって定められました。
Google検索などで紅茶の日と調べると答えは容易にでてきますが、と同時に大黒屋光太夫という名前が必ず出てきます。
大黒屋光太夫とは??江戸時代の人っぽい。小判とか持ってそう。はたまた米相場の人?
みたいなイメージの名前ですがこの方は商家の息子さんです。

現在の三重県のあたりは昔江戸時代に伊勢の国と呼ばれており、その地域で船での運送を行なっていた人でした。
なぜ伊勢の国の運送屋さんが紅茶と結びつきがあるのか。
しかも江戸時代に?こんな事をこのコラムでご紹介したいと思います。

目次

① 大航海ならぬ大漂流者

江戸時代の漂流のイメージ
江戸時代の漂流のイメージ。光太夫たちが乗っていた船はもう少し大きかったとされる。

アムチトカとういう島があります。マップで検索するとびっくりするところに島があります。
この辺りはベーリング海で日本人の私たちにはとても馴染みの薄い地域で多くの島が繋がるようにして点在しています。
光太夫以下乗組員17名が三重県鈴鹿市辺りから江戸へ向かう時に、船が漂流してしまい、この地に降り立ったのです。
簡単にサラッと漂着まで書いておりますが伊勢の国を出てから何度も大嵐にあった上で8ヶ月後、このアムチトカへ辿り着いたと言う事ですから大変な事です。
もちろんこの間に亡くなってしまった乗務員もいらっしゃいます。
ですがこれはまだ旅の始まりだったのです。

アムチトカ島は無人だったかというとそうではありません。
実際にロシア人が住んでいたらしいのですが、最初は光太夫も相手も言葉が通じません。
初めて見るロシア人に乗組員は天狗かと思ったとか。。無理もありません。
お互いの意思疎通は少しずつ理解するようになっていったようですが、場所がまったく把握できませんし日本がどこにあるのかも分からず、しかも異国人がお出迎えする訳ですからさぞ大変だったかと思います。

さらに江戸時代は鎖国制度を敷いてます。
海外の人など見たことない、そんな時代に外国人と接見した乗組員たちはさぞ大変だったと思います。
島に着くや数名の乗組員が亡くなっています。

アムチトカ島
アムチトカ島までの経路

② ロシアへ

広大なシベリアの大地1
広大なシベリアの大地1

紅茶とは無関係な話がずっと続きますが、漂流してから1年が経ちました。
光太夫たちは少しずつロシア語を覚えていき、自分たちがどこのあたりにいるかをやっと把握できてきたと伝記に伝わっています。
言葉を覚えはじめた光太夫たちは次第にロシア人たちとの交流が増えていきました。
現地人たちとも時には狩りに出かけたりして食糧の捕獲なども行ったようです。
自分たちが大体どのあたりに流されたのか。現地人とロシア人たちの関係。
ロシア人たちがなぜこの辺境の地にいるのかなど学習していったのです。

そしてロシア人たちも帰るべく場所があり狩りで貯めている毛皮などを本国へ持ち帰る目的もぼんやり見えてきたのです。
外国へ流された光太夫たちが日本へ帰れるかは定かではないとして、ロシア人たちが大陸へ戻ることははっきりしました。
共同で帰るべく船を作り始めアムチトカ島からベーリング海辺りを越え、カムチャツカ半島へ渡ったのです。
この時に17名だったメンバーは9人に減っています。

③ サンクトペテルブルグで女王に謁見

サンクトペテルブルグまでの経路
サンクトペテルブルグまでの経路

カムチャツカへ渡った光太夫たちは現地の役人に、日本へ帰れるように便宜を図ってもらい、しばらく時が経過することを覚悟しなければなりませんでした。
と、同時にアムチトカ島で交流のあった人々とのお別れもありました。
そんな中カムチャツカで厳しい寒さを乗り越える試練が待ち受けていました。

越冬した光太夫たちはいよいよカムチャツカを横断しオホーツクへ向かいました。
この時に地図などありませんから日本へ近づいているのか、遠ざかっているのかは分かりません。
そんな複雑の心境の中漂流してから6年の時間が経過しており、冬を越せなかった仲間もいて11名の乗組員がこの時に亡くなっています。
オホーツク、ヤクーツク、イルクーツクと広い広いロシアの大陸を移動していきます。

光太夫はこの時の移動の手段やそれぞれの町でなにをしかたも事細かく日記にして書いています。
ほとんどの内容が史実に基づくものだと伺えます。
ロシア人たちは光太夫たちをロシアに留めたい。光太夫たちは日本へなんとしても帰りたい。
そんな交渉を繰り返していくうちについにサンクトペテルブルクへ向かいました。
距離はオホーツクからイルクーツクへ移動した距離の倍です。長い長い旅路をへてついにサンクトペテルブルクへ辿りつきました。

ロシア帝国時代のサンクトペテルブルグのイメージ
ロシア帝国時代のサンクトペテルブルグのイメージ

サンクトペテルブルクへついた光太夫たちはついにエカテリーナ女王と謁見する機会を設けたのでした。
エカテリーナ女王との2度目の拝謁の際に小部屋へ呼ばれて日本からの漂流の話をいろいろお話ししたようです。
その際に女王からミルクティーをいただいたという伝記が残っています。

日付は7月の下旬ですが、さまざまな解釈を経て現在では11月1日がその日とされ紅茶の日と1983年に定められたのでした。
この時、ロシアの大陸に日本人がいなかったということはありませんが、ロシア帝国の女王に謁見し談話をした際に出されたお茶が紅茶となれば、大黒屋光太夫が日本人では初めて紅茶を飲んだと言っても良いのではないでしょうか。

④ 光太夫帰途へ

広大なシベリアの大地2
広大なシベリアの大地2

政治的な思惑があったロシアは光太夫たちの帰国を進めていきます。
目的は長く鎖国をしている日本との交易です。当時日本はオランダ以外は全て封鎖していましたが、日本に近いロシアは日本との交易を強く望んでいました。
ギブ&テイクで光太夫たちを帰す口実を外交に用いようとしたのですね。

結果的に光太夫たちは日本へ帰ることになります。
きた道を経てオホーツクへ。そして北海道へついに辿りつきました。
漂流したのが1782年。北海道へ到着したのが1793年。約11年の歳月が流れ、光太夫は身内をその間に亡くしていました。
17名いた乗組員は3名が日本へ。2名はロシアへ残り他は道中で亡くなっています。
また、日本へ帰った1名は北海道の大地を踏むや亡くなっています。

晩年光太夫とその相方磯吉は幕府に幽閉されながらも現在の九段下あたりで生活していたようです。
多くの仲間と死別し死にものぐるいで日本へ帰った光太夫の心情は、幽閉されて生活した晩年にロシアでの生活を思い返してみると複雑だったのかもしれません。
11月1日は紅茶の日と定められていますが、こう言った漂流記に思いをはせて紅茶を頂くのも良いのではないかと思いました。

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五感を刺激し未知なる味と場所へと誘う純粋で透明なシングルガーデンティーを提供します。

世界中の高級ホテルの客室、レストラン、ラウンジのアフタヌーンティーで採用されている、世界中から愛される紅茶ブランドです。

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